メディア論の話をする上で欠かせない思想家は、マクルーハンだけではありません。今回紹介するヴァルター・ベンヤミンも多くのメディア論者に影響を与えています。彼はドイツの文芸批評家、哲学者、哲学者、思想家、翻訳家として知られています。代表的な、著作は「複製技術時代の芸術」や「パサージュ論」が挙げられます。今回はそんなベンヤミンが、どのような思想を展開していたのか、ざっくり解説していきます。
ヴオルターベンヤミンの出自は?
ヴォルター・ベンヤミンは、1892年7月15日にベルリンに生まれました。彼は裕福な家庭の出身で、幸福な少年時代を送っていたといわれています。その後、フライブルク大学に入学した後、ベルリン大学に移籍。さらにその2年後ミュンヘン大学へ移籍。その後もヨーロッパ各地を転々としていたようです。
略年譜[編集]
1892年、エミール・ベンヤミンとパウリーネ(旧姓シェーンフリース)の長男としてベルリンに生まれる。
1912年、フライブルク大学に入学。
1913年、ベルリン大学に移籍。
1915年、ゲルショム・ショーレムと知り合う。ミュンヘン大学へ移籍する。
1916年、「言語一般および人間の言語について」を執筆。
1917年、ドーラ・ゾフィー・ケルナーと結婚。スイスへ移住し、ベルン大学へ移籍。
1918年、長男シュテファン生まれる。エルンスト・ブロッホと知り合う。
1919年、学位論文「ドイツーロマン主義における芸術批評の概念」によってベルン大学より博士号を受ける。
1920年、ベルリンに戻り「ドイツーロマン主義の芸術批評の概念」を刊行。
1921年、クレーの版画「新しい天使」を入手。「暴力批判論」を発表。「翻訳者の使命」を執筆。
1922年、「ゲーテの「親和力」について」を執筆。
1923年、アドルノ、クラカウアーと知り合う。ボードレールの詩集「巴里風景」の翻訳を出版。
1924年、カプリ島に滞在中、アーシャ・ラツィスと知り合う。「ドイツ悲劇の根源」を執筆。「ゲーテの「親和力」について」を発表。
1925年、「ドイツ悲劇の根源」を教授資格申請論文として、フランクフルト大学に提出するが拒否される。秋にスペインとイタリアを旅行し、ラトビアのリガでアーシャ・ラツィスに再会。プルーストの「失われた時を求めて」の翻訳を始める
1926年、パリに旅行する。「一方通行路」の一部を執筆。父、死去する。マルセイユに旅行。モスクワに旅行し、アーシャ・ラツィスに会う。
1927年、プルースト「花咲く乙女たちのかげに」の翻訳を出版。パリに旅行しパサージュの研究を始める。
1928年、「ドイツ悲劇の根源」「一方通行路」を出版。ショーレムよりエルサレム大学に招聘される。年末からアーシャ・ラツィスと同棲する。
1929年、妻ドーラとの離婚訴訟を始める。ブレヒトと知り合う。
1929年と1932年に少年少女向けのラジオ番組に出演した。
1930年、年頭、パリ滞在。3月離婚が成立する。8月、北極圏旅行。11月母、死去する。ヘッセルとの共訳でプルースト「ゲルマントの方へ」刊行。
1931年、「カール・クラウス」「写真小史」「破壊的性格」等を発表。
1932年、2月、3月にフランクフルト放送局で、放送劇が放送される。4月から7月ごろまで、イビサに滞在。ひきつづきイタリア旅行。
1933年、3月中旬パリへ亡命。社会学研究所の紀要に執筆協力を開始。4月から半年ほど、イビサ島に滞在。10月、パリへ戻る。
1934年、「生産者としての作家」について講演。6月から10月、デンマークのフィーン島スヴェンボルのブレヒトのもとに滞在。11月から翌年4月までイタリアのサン・レモの元妻ドーラのもとに滞在。
1935年、4月、パリに戻る。5月、「パリー19世紀の首都」。10月、「複製技術時代における芸術作品」。
1936年、スイスで「ドイツの人びと」刊行(デートレフ・ホルツ名義で)。7月から9月、スヴェンボル滞在。
1937年、7月から8月までサン・レモ滞在。年末から翌年頭までサン・レモ滞在。「エードゥアルト・フックスー収集家と歴史家」など発表。
1938年、6月から10月までスヴェンボルに滞在。「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」を書き上げる。
1939年、大戦開始間際だというのにパリに留まり続ける。「叙事詩的演劇とはなにか」「ブレヒトの詩への注釈」「ボードレールのいくつかのモティーフについて」など。9月から11月、開戦にともない敵国人であるベンヤミンはヌヴェール郊外の収容所に入れられる。
1940年、春、「歴史の概念について」執筆。パリを陥落直前に逃れてルルドへ向かう。8月はじめ非占領地域のマルセイユへ移る。アメリカへの渡航を企てるも出国ビザが下りず、非合法に徒歩でスペインへ入ろうとする。9月26日、スペインに入国しようとするが、ポルボウで入国を拒否され、大量のモルヒネを飲んで自殺を計り、翌日死去する。
ベンヤミンの提唱した主要概念:「アウラ」
アウラとは、もともとギリシャ語で「空気」「微風」を意味し、天女の頭上で風に揺れる布によって表象されていました。中世には、このイメージが原型になって霊感のある人は頭上の光輪や身体から放射する輝かしい色としてアウラを見ることができると考えられるようになり、さらには神秘思想のなかで人体に内在する霊的能力としても探求されました。
こうした歴史的背景をもつ概念を、ヴァルター・ベンヤミンは芸術作品にそもそも付与されていた一回性、宗教的な儀式性を意味する概念へと転用しました。ヴァルター・ベンヤミンの考えでは、芸術作品はそのアウラ的機能によって、見る者を共同体の根源的な意味へといざなってきました。
「アウラ」が生まれた背景
アウラという概念が生まれた背景は、写真や映画に至る機械的な複製技術の発達がありました。写真の登場以降、芸術の複製化が可能になることで、芸術作品がこうした根源的な意味と結びついていくことが困難になり、見る者と作品のアウラとの関係が崩壊していくと考えました。ヴァルター・ベンヤミンはこのような時代の流れを資本主義的な文化生産システムが、文化や芸術表現の領域へも拡大していった現れとしてもとらえながらも、なおその中に独占資本による大衆操作という一面的な把握には還元できない多元的な可能性を見出していたのです。
メディア(映画や写真といった芸術作品)をイデオロギーの闘争の場として捉えた彼の思想は、その後のメディア批評やメディア論に多大な影響をもたらしたのです。
ベンヤミンの代表的な著書
「複製技術時代の芸術」
ベンヤミンの著作の中でも、最も広く知られているのが、この「複製技術時代の芸術」です。彼の提唱した概念「アウラ」はこの著作で初めて使われています。前述したように、写真や映画といった技術が発展によるメディアの在り方の変容をベンヤミン独自の視点で捉えています。
「写真小史」
「複製技術時代の芸術」と同じ文脈で論が展開されていますが、こちらは写真にフォーカスを当てた話が中心になります。写真の歴史や、当時の消費のされ方などに関しても記載があり、純粋に写真について学びたいという方にもおすすめです。
「パサージュ論」
「パサージュ論」は、1927年から29年、途中中断を挟んで34年からベンヤミンが死にいたる40年までのあいだに取り込まれ、膨大な引用とそれに対する注釈、や彼自身の考察からなる断片群。アウラとは異なる「パサージュ」という概念を中心に論が展開されています。