こっそりメディア論

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メディア論における主要な論客3人

今回は、近年再評価されているマーシャル・マクルーハンを初め、メディア研究・理論において押さえておきたい論客を、独断と偏見で5人紹介します。

①「メディアはメッセージである」マーシャル・マクルーハン

 マーシャル・マクルーハンはカナダの英文学者であり、その仕事は文学方面だけでなく、メディア理論としても高い評価を受けています。ここではその中でも最も有名な「メディアはメッセージである」というテーゼを取り上げます。

メディアはそのコンテンツだけでなく”メディアそのもの”として社会に影響を与える

それまで、メディア研究というのは専らそのコンテンツの研究に重点が置かれていました。しかしマクルーハンは、メディアそのものとしての社会への影響力にも着目したのです。

たとえば、新聞やテレビといったマスメディアと、ネット上のブログなどで同一の情報が発信されたとしても、その”信憑性”という点において様々な議論がなされていることからもわかるように、社会に与える影響は異なりますよね。

つまり、伝える内容(コンテンツ)だけが意味を持つのではなく、それを媒介するメディアも私たちの情報の受け取り方に影響を与えるという点で意味を持っているといえるのです。

今こそ読みたいマクルーハン

 

 

②ウォルター・ベンヤミン (1892年7月15日-1940年9月26日)

”メディアそのもの”が持つ意味に着目したていたのは実はマクルーハンだけではありません。ここでご紹介するウォルターベンヤミンも、広い知見と鋭い考察力でメディア研究領域に貢献した人物として知られています。

ベンヤミンはドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家でフランクフルト学派の1人に数えられており、西洋マルクス主義に強い影響を受けているといわれています。

言語という”メディアそのもの”が持つ意味に注目

ベンヤミンもまた、マクルーハンと同様にメディアそのものが持つ意味に早くから注目していました。

特に、ベンヤミンが当初から注目していたのは、言語というメディアの”非手段性”です。私たちは普段、伝えたいコンテンツ(意味)を”言語という手段”を活用して相手に伝えている、そう考えがちですが、ベンヤミンはその通念に疑問符を投げかけたのです。

彼は、伝えたい意味が前提としてまず存在していて、それを言語によって伝える、のではなく、むしろ言語というメディアを通して意味は後から生成される、つまり言語こそが意味を成立させている”トポス”であると主張しました。

こういったベンヤミンの言語についての理解は、マクルーハンを始めとしてたメディア研究者達に多大な影響を与えました。

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む―言葉と語りえぬもの

 

 

③ウォルター・J・オング (1912年11月30日-2003年8月12日)

3番目にご紹介するのは ウォルター・J・オングです。彼はアメリカの英文学や文化研究、哲学といった領域で活躍した人物です。

メディアの変容が社会に与える影響について研究

彼が注目していたのは、技術革新などによるメディアの変容が、社会に与える文化的意識的影響についてです。これは前述したマクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉と重なる部分がありますね。

オングによると、メディアの変容は、単純に”表現手段の変化”に止まらず、思考や記憶の様式、そして世界観を根底から変えてしまう構造的な契機をもたらします。

例えば口承的なメディアかから初期的なメディアへの移行は、社会的現実の構成を最も深いレベルで変容させた、と言われています。言語が記録可能になったことによって、かつて言語が持っていた”今ここ”という一回性は失われ、分析的な思考の道具になりました。形式論理的な推論、事象の定義、図形の理解などは、「書く」という技術によってはじめて可能になったといえるのです。

声の文化と文字の文化

 

 

~ まとめ ~

いかがでしたでしょうか?ここまで、メディア研究における主要な論客を私の勝手な独断と偏見で3人ご紹介させていただきました。(時系列などバラバラでなかなか読みづらかったかもしれません、すみません、、)

さて、この3人ともに共通することってなんだと思います?それは、メディアを単なる情報伝達の手段としてではなく、様々な力関係の中で意味が生成される場としてとらえていることです。

新聞やテレビといったマスメディアからインターネットまで、私たちの生活は今メディアに溢れています。これだけ多くの情報を私たち自身の手で得ることができる時代なんて、今ままで無かったはず。

だから、”正しい情報と誤った情報を取捨選択するためのリテラシーを身に付けなければいけない、ということはよく言われているし、僕もよく言ってきました。

ただ、最近思うのは、「リテラシーを身に付けて意味あるのかな?」ってことです。

この3人が言うように、メディアが単なる情報の伝達手段ではなく、意味が生成される場所であるとするなら、”正しい情報”って極論存在しえないんじゃないかな、と。

どんなに実績のある新聞記者が書いた記事であっても、個人的なバイアスは入り得るし、それは僕みたいなブロガーも同じ。っていうかそれでいいと思うんですきっと。

メディアは無色透明である必要はないし、もっというとそれは不可能

だから、最近ネットで良く聞くマスコミ叩き、「マスコミは事実だけを伝えておけばいい」とおっしゃっている方には、是非今回取り上げた御三方の書籍をおススメします笑

少し視野が広がるんじゃないかなー

というわけで、かなり話が脱線してしましましたが、今回はこの辺で。